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最新レポート
人の命より資本主義を優先するのか?米国健康保険改革の座礁


私がシリコンバレーに渡ったのは13年前である。当時の健康保険料は月額2万円(1ドル=100円)程度であった。それが10年ほど前から徐々に上がりだし、この5年間の上げ足は驚くほど早い。2年前に月額23万円と通告された。年額に直すと276万円にもなる。もはや筆者の支払い能力を超えてしまった。

筆者は個人で加入しているので、企業の従業員として加入するのに比べて3倍ぐらい高めになる。それに60歳を超えると上昇カーブは急にきつくなった。65歳になると公的保険であるメディケア(高齢者用公的健康保険)が適用になるので、負担はぐんと軽くなるが、それまでは民間保険しか選択肢はない。保険会社を変えても似たり寄ったりの保険料である。周りの日本人の中には保険料の高さに耐えかねて帰国する人が増えてきた。

そこで、筆者はアメリカの健康保険を諦めて、日本の健康保険に加入することにした。筆者は元勤務していた銀行の健康保険組合に相談に行った。70歳まで加入できる退職者用の健康保険があるという。入行以来28年間に渡って、これといった病気にも罹らずに保険料をせっせと納めてきたから、こうした便宜を図ってくれるのだろう。

保険料を尋ねた。20数万円だという。それは月額かと尋ねたら、年額だという。何という差だ。迷わず住民票を日本に移して加入することにした。アメリカに年間の半分以上住んでいる筆者としては不安が残った。もし事故にあったらどうなる、もし救急患者で入院したらどうなる。考えればきりがない。不安がいっぱいである。でも健康保険に276万円は払えない。腹をくくるしかなかった。

アメリカでは保険に加入していない人が4600万人もいる。6人に一人が保険に加入していない。企業に就職している間は、企業の健康保険に加入できる。個人で加入するより料率は低いし会社補助もある。だが、企業からレイオフされると状況は一変する。1年半はやや高い料率で元勤務先企業の健康保険を続けられるが、それ以降は個人で保険に加入しなければならなくなる。給料もない中で健康であることを神に祈りながら無保険者になる。

誰もが保険に加入できる訳ではない。病歴のある人は断られるし、病気療養中の人も加入できない。保険会社は民間企業であるから、保険の支払いが起きそうにない健康な人を選んで加入させる。いちばん保険を必要とする人が加入できない。保険の精神から見ればまさに本末転倒である。

すでに民間保険に加入している人でも実際に病気になると、保険会社が負担してくれないケースも数多くあると言う。いろいろな難癖をつけて支払いを渋るからだ。日本のように治療と保険会社負担額に関する統一ルールが一部しかないので、大きな支出を伴う医療行為を行う場合に、医師は事前に保険会社の承認を得る必要がある。医師の毎日は保険会社との交渉に費やされている。

国と州が共同運営するもう一つの公的保険がある。低所得者向けのメディケイドである。連邦基準で、貧困層と言われているのは年収百万円未満の層(一人暮らしの場合)である。しかしその層でも60%がメディケイドに加入できないと言う。ということはメディケイドにも加入できず、民間保険にも加入できない多くの貧しい人々がいることになる。

このようにして多くの市民が民間保険からはじき出されている。失業中で資力のない人、自営業で資力のない人、既往症のある人、極貧層ではないが低所得の人々。こうした人々を合わせると4600万人にもなってしまう。こういう人が病気になるとどうなるか。通常は多少痛くても医者には行かずに市販薬で治療する。それでも症状が悪化するようだったら救急患者として病院に駆けつける。

到着した病院が最初に聞く質問は「あなたは保険に加入しているか?」。もし加入していないと「いくらなら払えるのか?」。この国には病院に駆けつけた急患を「門前払い」できない法律がある。このために病院としては診断をして何らかの治療をしなければならない。緊急に手術をしなければならない場合には、もっとも安い手術代を選択して分割納付をする約束をする。すると手術経験の乏しい医師が出てきて手術をしてくれる。医師の訓練の実験台にされてしまうのだが、金がなければ応じざるを得ない。

では保険会社の経営状況はどうか。この国には数百の民間健康保険会社があるが、州単位で活動している。歴史的に見ると慈善団体・非営利団体から発達した企業が多い。2000年前後に相次いで営利企業に移行した企業も多い。保険料高騰の時期と、営利企業移行の時期が一致する。大手の保険会社は、数百億円単位の利益をあげ、経営者は億単位の給料をもらっている。従業員の給料水準も全業種平均給料の1.5倍の高さである。保険会社は州単位の独立企業となっているので、競争が制限されていることも高収益の一因である。

金融業と似たような現象が起きている。「人の財産の預かる企業」と、「人の命を預かる企業」が、社会の弱者を食い物にして巨利を得て、高給をお手盛りしているのである。

健康保険制度の改革はオバマ大統領の選挙公約であった。就任後、銀行への公的支援・GM・クライスラーの倒産問題に忙殺されていたが7月から具体策を検討し始めた。与党民主党の中でも議論百出で具体策がなかなかまとまらない。ようやっと民主党員の大方の賛成を得られそうな案が出てきたのは9月に入ってからだった。9月10日にオバマ大統領は議会に出向き、与野党議員を前に政府案の説明をした。

政府案は、
 @民間保険に加入できない人を救済する政府保険機関を作る。
 A保険取引所を開設して個人が競争価格で保険に加入できるようにする。
 B保険会社が契約者の既往症を理由に支払いを拒否するのを違法とする。
 C保険会社の負担額に上限を設けるのはなく、個人の負担額に上限を設ける。
 D保険会社間の競争を促すとともに、利用者が広く保険会社を選べるようにする。
が骨子となっていた。

大統領の議会での演説の最中に出席者からヤジが飛んだ。大統領が政府案では不法滞在者は保険の対象にならないと発言した時に、ある共和党上院議員が「You lie(嘘だ)」とヤジを飛ばした。会場は騒然となった。首相の演説中にヤジを飛ばすことは日本と英国ではよく見られるが、この国では前代未聞の出来事である。同議員は直ちに大統領に謝罪し、大統領もこれを受け入れたので、これ以上のこじれは起きないで済んだ。

民主党案の作成段階では不法滞在者も対象に加えることが議論されたようであるが、政府案ではこれを排除した。共和党議員の誤解であった。ただ、この発言をした共和党議員に保険会社から直ちに数千万円の政治献金がなされたという。

保険会社のロビー活動(献金と法案変更圧力)は強烈である。官業保険会社が設立されれば、それとの競争に巻き込まれて甘い汁を吸えなくなるし、官業保険に顧客を奪われる怖れがある。既得権を維持するため保険会社は必至である。

テレビを見ていると国民を迷わせるような宣伝に出くわす。「政府はたとえ官業の保険会社ができても、現保険契約者は民間の保険を続けられると言っている。これは嘘である。政府の言うことに騙されてはならない。」こういったメッセージがひっきりなしにテレビに出てくる。

保険業界は金を持っている。全米第八位の献金グループである。2008年の政治献金額は28億円に上り、民主党と共和党にほぼ半々に献金している。2009年には政府案を潰すために共和党議員を中心に巨額の資金を投入してロビー活動を展開している。90年代にクリントン大統領が健康保険の改革案を提示したときにも、保険会社の圧力で潰された歴史がある。

今回もその気配が漂っている。オバマ大統領の演説の後、政府案の審議が上院の財務委員会で始まった。共和党が反対するのは予想されていたが、民主党の中にも反対に回る議員が現れ、政府案は否決されてしまった。公的保険機構を設立すると民業圧迫が起こるのと、財政負担がさらに大きく増えるのが主な理由である。オバマ大統領は代替案があるなら検討するとしているが、改革そのものが難しい局面に立たされてしまった。

国民の世論も「政府案支持率が過半数を切った」との調査結果があり予断を許さない。なぜそうなったのか。アメリカ人には資本主義の市場原理を信奉する人が多い。「資本主義に優勝劣敗はつきものである。成功するのが自己責任ならば、失敗するのも自己責任である。失敗か成功かは市場が決める。政府が介入してうまく行ったためしがない。市場を捻じ曲げ非効率が起きる。いくら税金を上げても追いつかなくなる。政府機構なぞ作らない方が良い。」というのだ。

資本主義の理念を人の命にかかわる問題に適用するのが正しいのか。保険会社が利潤に走れば、保険を必要とする人が捨てられて死んでいく。お互いに助け合う精神は資本主義からは生まれてこない。それを実現するのが税金を活用した公的保険ではないだろうか。税金を使わない保険改革はそもそも無理である。そのために諸外国の保険制度は公的保険の形をとっているのだ。

日本も国民皆保険を導入している国の一つである。だが、OECDが絶賛するのはフランスの保険制度である。フランスの保険の仕組みには他国には見られない特徴がある。「病状が悪化して治療期間が長くなればなるほど、保険料がどんどん下がり、ついには個人負担がゼロになってしまう」仕組みである。これこそ保険の神髄ではないだろうか。

小賢しい資本主義の論理をかざして、すべての物事を解決できると考える視野の狭さ。自分だけが生き抜ければ良いと考える個人主義。「明日は我が身」と思わない思慮の浅薄さ。他人の不幸を思いやる温かさの欠如。業界のロビー活動に簡単に騙される愚かさ。いまのアメリカ人にはそのすべてが当てはまる。アメリカの保険改革は単なる制度改革ではない。そこには「アメリカ人の人間性を問い質す」「踏み絵」がある。




カリフォルニア州メンロパーク市にて
安藤 茂彌
http://diamond.jp/series/siliconvalley/10024/に掲載(2009年10月11日)

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