婚前契約と愛
筆者のシリコンバレーのアメリカ人の友人に離婚を二回した男がいる。最初の妻は日本人女性で、次の妻はタヒチの女性である。それぞれに一人ずつ子供がいる。彼の週末は忙しい。土日はそれぞれの子供の世話でつぶれる。ハーバード大学のビジネススクールを優秀な成績で卒業した50歳のハンサムな白人である。彼はさぞかしモテたであろう。だが、二回の離婚で財産を半分ずつ分与し、今はすっかり貧乏になってしまった。
彼はかねがね、優しく「つくす」タイプの女性を求めてきた。日本人女性はそのカテゴリーに入ると考えていた。しかし、現実は違った。自由を謳歌するアメリカ人女性と変わらなかったと言う。タヒチの女性も同様だった。「もう結婚は懲り懲りだ。」と常々語っていた。
そんな彼から突然電話が入った。三回目の結婚をするという。今度の相手はウクライナ人の20代の女性だと言う。とても優しくて従順な女性だという。彼女を探し出すために彼は12回ウクライナに足を運んだ。今、彼女は英語の勉強に忙しいという。
私のもうひとりの友人にチェコの女性と結婚した男がいる。彼もハーバードの卒業生である。卒業後、チェコに職を求め、そこで知り合った女性と結婚した。今はサンフランシスコ市内に住んでいる。昨年子供もできた。彼女の英語もずいぶんうまくなった。なぜか私の周りには、ロシア、東欧の女性と結婚するアメリカ人男性が多いのである。
アメリカ人夫婦の半分近くが離婚する。初婚の場合の離婚率は1/3。二度目以降の離婚率は1/2に達する。離婚となると財産の分与が必要になる。カリフォルニア州では、婚姻中に得た財産の半分は自動的に妻に行くが、弁護士を立てて争うケースも多い。弁護士費用は普通でも30−120万円と高い。訴訟にかかる時間も馬鹿にならない。
そこでいま、婚前契約(Prenuptial Agreement)が注目を集めている。自分の死亡や離婚の際に発生する財産の分配を、結婚前にあらかじめ合意しておく契約である。これで弁護士費用、時間、諍いを最小限に食い止めようとする。「婚前契約」は、大富豪、映画スターの結婚で頻繁に行われてきた私的契約であった。エリザベス・テイラー、ジャックリーヌ・オナシスがその例である。
だが「婚前契約」は、長らく「胡散臭い契約」と見られてきた。金持ちが自分の財産の保全する目的が強いと見られてきたからである。裁判所はこれによって弱者の権利が阻害されていないかを検証し、その有効性を慎重に見極めてきた。しかし、90年代に入ると、一定の要件を満たす「婚前契約」の有効性を認める州が出始めた。現在では全州でその有効性が認められている。
では、ここで何を決めるのか。何といっても金の問題である。どの財産が夫婦の共同財産になるのか、どの財産は夫あるいは妻の固有財産に属するのかを分類する。カリフォルニア州では、「夫婦が結婚してから一緒に築いた財産は自動的に二人の共有財産になる」と規定する。この制度では、先に死んだ配偶者の財産は妻に渡ってしまう。以前の結婚で生まれた自分の子供に財産を残すには別の合意が必要となる。
金の問題はこれだけではない。夫が以前から背負ってきた負債はどうするのか。夫の家族が代々築いてきた家族の事業はどのように継承していくのか。日々の家計の支出は誰が支払うのか。銀行預金は夫婦連名にするのか。新たに家を買う場合には共同名義にするのか。若くて結婚した場合に、一方の配偶者の学費は誰が払うのか。生命保険の受取人は誰になるのか。金の問題は際限なく続く。「婚前契約」はこれらを事前に決めておこうとするのである。
「婚前契約」の内容は当事者だけの秘密のはずである。これが漏れてくるのは、当事者のどちらかが喋っているのだろう。このところ新聞紙上を賑わす「婚前契約」の話題が増えている。ニューヨークを中心にいくつものホテル、不動産を所有するロナルド・トランプが二度目の離婚をした。相手に支払った手切れ金は25百万ドル(30億円)。人気ポップ歌手ブリットニー・スピアが、離婚相手に支払った慰謝料の上限は30万ドル(3600万円)。
数年前に、アメリカの俳優マイケル・ダグラス(当時56歳)が英国の女優キャサリン・ゼタ・ジョーンズ(当時31歳)と結婚したときに結んだ「婚前契約」は話題になった。女癖の悪いマイケルに突きつけた不倫条項とは、「浮気一回につき5百万ドル(6億円)を妻に支払う」内容だったと言う。以来マイケルは良き亭主になったとのこと。
シリコンバレーで「婚前契約」はごく普通の話題である。この地には金持ちが多いし、2度目、3度目の結婚をしている夫婦も多い。まさに「婚前契約」を必要としているカップルが多いからである。しかし、芸能人のように具体的な内容を他人に口外することはない。当事者だけの秘密にしている。では、芸能人、金持ち以外の一般的なアメリカ市民は「婚前契約」をどう見ているのだろうか。2002年にある調査会社が実施した調査結果がある。
「結婚前から金の問題に注目することは良いことだ(28%)」、「婚前契約は金持ちや映画俳優の結ぶもので一般市民には関係ない(25%)」、「結婚に愛と信頼があるならば「婚前契約」なぞはそもそも不要だ(19%)」、「婚前契約は離婚を前提とするもので許せない(15%)」、「婚前契約は良いことだと思うが結婚前にこんなことを持ち出しては関係が冷えてしまう(12%)」とネガティブな回答が多い。
実際に「婚前契約」を結んでいる人はどれくらいいるのだろうか。2002年時点では2%である。少数の人に多くの富が集中するこの国では、2%は決して少ない数字とは言えない。ある弁護士事務所によると、ここ数年間で「婚前契約」に関する問い合わせは急増していると言う。「婚前契約」が、富裕層を出発点にこれから一般市民に広がる可能性が高い。
日本ではどうか。そもそも法律が違う。日本の民法では配偶者の一方が死亡した場合に、全財産が生存配偶者には行かない。半分は子供に配分される。離婚の場合にはケースバイケースであろうが、アメリカのように自動的に半分に分ける原則はない。その点アメリカの女性は異常に強い立場にある。
同時にアメリカ人女性は、この強い立場を乱用することも可能になる。金持ちと結婚して4−5年たち、この結婚が気に食わないとなったら、離婚して膨大な財産を手にできる。「婚前契約」はこうした乱用を最小限に食い止める契約のように見える。
先に述べた50歳の男性のように、人権思想の遅れた国から花嫁を迎えるのもひとつの防衛策であろう。彼は初心な花嫁を相手に「婚前契約」を締結して、「愛」と「金」を両立させようとしているのであろう。だが、最初はいかに初心な女性であっても、長年この国に住むうちに人権思想を身につけるものである。彼の最初の結婚、二度目の結婚がこれを物語っている。
アメリカの離婚率は今後とも上昇することはあっても低下することはなかろう。弁護士費用もますます高くなろう。結婚に愛と信頼が必要なことは当然の真実だとしても、複数回の結婚から自分を守っていく選択肢として、これから「婚前契約」が見直されていくように思う。
それでも「婚前契約」は札束で相手を黙らせる方法であることには変わりはない。では、こうした契約に「愛」はないのか。否、そうではなかろう。「愛」はある。でも、それは時間の経過とともに崩れやすい「愛」なのである。人権思想の発達したこの国で、「愛の脆さ」と「現実生活の厳しさ」に直面するとき、人間は「契約」に拠り所を見出すのではないだろうか。いま多くのアメリカ人が「愛」と「金」の交差点で迷っている。
カリフォルニア州メンロパーク市にて
安藤 茂彌
日経ネット・企業・コラム・海外VBトレンドに掲載(2007年1月16日)
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