賢人たちのご意見に悩む大統領
ブッシュ大統領率いる共和党が11月の中間選挙で大敗し、民主党主導の議会体制が整いつつある。これを機に、超党派でブッシュ政権のイラク政策の見直しを迫る機運が高まっている。そのひとつとしていま注目を集めているのがイラク研究グループの提言である。
イラク研究グループは共和党と民主党の閣僚経験のある大物政治家が5名ずつ集まった超党派グループである。その中心人物は、父親ブッシュ元大統領の時代に国務長官を務めたジェイムス・ベーカー氏(共和党)と元下院外交委員長を務めたハミルトン氏(民主党)である。この報告書がウェブに掲載されてから5時間後には40万部ダウンロードされたほど注目されている。
筆者も読んでみた。142ページからなる報告書に79の政策提言がある。主な提内容は、@ブッシュ政権の「力の外交」から「話し合い外交」への姿勢の転換、Aイラク政府の自分の国は自分で作る当事者意識の高揚、Bイラク政府への時系列の目標設定と達成度チェック、C駐留米軍よるイラク治安部隊訓練への政策シフト、Dこれによる米軍の段階的撤兵(開始時期2008年第1四半期)、Eイラクの治安維持に向けた近隣諸国(特にイランとシリア)への協力要請、F中東全域での全般的な平和維持体制の策定等の内容を含む。
この報告書にはイラクの宗派間対立の構図が詳細に記録されている。スンニ派、シーア派それぞれ中に複数の武装組織があり、命令系統はバラバラである。政府の治安組織も軍、警察、設備防衛部隊の3組織に分かれ、それぞれが14−15万人を要する大組織である。しかし規律がなく本来の機能を果たしていない。国の目的に沿って活動するよりも、その組織の多数を占める宗派のために武力行使することがしばしばある。
これと並んで、政府内の各省が独自の武装組織を持っている。この組織も大臣の属する宗派のために活動することが多い。こうした組織と平行して、イスラム教の聖職者で作る組織がある等、極めて複雑な構図になっている。問題は宗派の利益が国の利益より優先されていることである。
フセイン大統領(スンニ派)が独裁政治を展開していた当時は、人口の2割を占めるスンニ派が権力を独占していた。イラクの人口の6割を占めるシーア派はこれに従わざるを得なかったが、米軍がフセイン政権を倒してから力関係が変わってしまった。多数派のシーア派が権力を持ちイラク政府の中で幅を利かせるようになった。
イラクの原油は、クルド人が住んでいる北部と、シーア派が住んでいる南部で採取される。スンニ派が多く住む西部からは石油が採掘されない。新政権の下で制定された憲法では当初、石油収入はそれぞれの地域に属するとしていたのを、スンニ派の選挙ボイコットによって歩み寄り、石油収入は人口比で割り当てることに変更した。しかしこれは現在採掘している油田の話で、これから新たに採掘される油田からの収入は依然としてその地域に属するとしている。
これではスンニ派がジリ貧になるとして憲法改正を要求しているが、政府内で主だった動きが出るには至っていない。フセイン時代に政府内の主要ポストを握っていたスンニ派のシーア派に対する不信感と憎悪は根深い。その憎悪はフセイン政権を倒した米国にも向けられている。現在の暴動の多くはスンニ派がシーア派と米軍を攻撃するものであるが、シーア派が自分の息のかかった軍、警察を動員して報復しており、終わりを知らない。
報告書は、イラクのマリク首相と閣僚がこうした暴力の応酬を排除する努力を十分にしておらず、宗派の利益を捨ててイラクの国作りに取り組む努力も不十分であるとしている。また、汚職もひどくなる一方で、産出原油の一割近くが行方不明である。閣僚の私服を肥やすために使われている可能性が高いと指摘している。
イラク人が自らの手で「維持継続できる国家、統治できる国家、防衛できる国家」を作るための、具体的な政策決定スケジュールも提示している。例えば、地方選挙法、石油法、民兵規正法等を2007年の早い時期に実施するように促している。これは、もしイラク人自らが自分たちの国家を自分たちで作る気概がないならば、米軍は撤退を含めて更に政策を再検討するとの暗示でもある。
駐留米軍の規模は現在14万人を超えているが、治安警備から国境管理までをすべて米軍が担うとなると、いくら増派しても足りない。このためにイラク人の治安部隊を訓練する「教官」を派遣することが必要になる。これによって余裕のできた兵士を帰国させられるようにできるとしている。そのためにはイラク軍や警察にもっと武器を提供しなければならないとしている。
これに対し、ブッシュ政権は既にイラク人の訓練は行っていると反発している。ただ一方で、今のような事実上「内戦状態」にある中で、アメリカ軍が持つような兵器を提供してイラク人治安組織を訓練すると、いつ誰の手に渡るかも知れず、こうした人々がこれを使ってイラク政府や米軍に刃向かってくるかも知れない。そうすれば米軍ならびに政府要人の犠牲者はこれまで以上に増えると軍関係者は心配する。
ブッシュ大統領は、イランやシリアとの直接対話の提案に対しては、鋭く反発している。自身が両国を「悪の枢軸」と呼び、彼らの孤立化を狙ってきただけに、いまさら「対話をしましょう」とはいえない立場にある。イランに下手に協力を頼めば、核保有容認の交換条件が出てくるだろうし、シリアに頼めばイスラエルの不利になる交換条件が出てくるのは目に見えている。
ブッシュ大統領は、今回の報告書は第一次湾岸戦争(91年)当時には通用した外交手段だったかもしれないが、現在では通用しない「時代錯誤」の提案であると暗に批判している。ソ連の崩壊を経て世界で唯一の覇者となった当時のアメリカだったらできた芸当かもしれない。だが今のアメリカは多く敵に囲まれている。こうした世界にした責任の多くはブッシュ大統領にあることも確かだが、提案内容が現実的でないのも確かである。
シーア派とスンニ派が首都バグダットを中心に抗争を繰り返すのに対し、北部のクルド人は石油資源に恵まれ、以前から独立国家を指向している。フセイン時代に一部のクルド人が毒殺され、これが大きくテレビで報じられたことがあった。これを見た米国民は「フセインはケシカラン」と一致して、フセイン政権打倒を支持した。
しかし、フセイン独裁体制は国内各派、各民族を微妙なバランスで押さえ込み、国家として機能を維持するメカニズムであったことを、今になって思い知らされている。フセインの重い石がはずれた後に、それに代わる国家体制を模索している。
ブッシュ大統領は「イラクに民主主義を植え付ける」のが派兵の大きな目的としているが、「最大多数の最大幸福」がこの国に適しているのかは疑問である。今の状況下で下手に民主主義を強調すると、シーア派の権力強化にはつながっても、イラクの国益を構築できるのか疑問が残る。因みに、今回の報告書は「民主主義を植えつける」という表現をまったく使っていない。
イラク研究グループのメンバーは、ブッシュ元大統領(父親)が息子の窮状を救うために選んだ人々である。90年代初頭に、まだアメリカを中心に世界の平和が維持されていたパックス・アメリカーナの時代に活躍した人々である。平均年齢は70歳を超えている。だが、今のアメリカを取り囲む状況は当時とは大きく変わっている。往時の賢人たちの意見は時代錯誤を起こしている。
この報告書にはアメリカ国民の多くの期待が集まっていたが、これを読んだ多くの米国民は、現大統領がここまで方向転換できるのか疑問を持った違いない。ブッシュ大統領は報告書の内容は尊重するものの具体策はこれから検討するとしている。賢人たちのご意見は、ブッシュ大統領に新たな悩みを突きつけた形になった。
カリフォルニア州メンロパーク市にて
安藤 茂彌
日経ネット・企業・コラム・海外VBトレンドに掲載(2006年12月11日)
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