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最新レポート
オペラ:原爆博士

サンフランシスコのオペラハウスで現代オペラの初演があった。原題は“Doctor Atomic”。訳せば“原爆博士”であろう。“原爆開発の父”ロバート・オッペンハイマーを主人公に、1945年7月に行われた米国ニューメキシコ州での世界初の原爆実験を扱っている。作曲はジョン・アダムス、台詞はピーター・セラーズ。

原子爆弾開発プロジェクトは、“マンハッタン計画”と呼ばれた。1942年に当時の大統領ルーズベルトの指示で始められた22億ドルの巨大プロジェクトである。当時の22億ドルは現在の250億ドル(2兆8000億円)に相当する。この計画には研究者と軍関係者、並びに、その家族を含めて約6000人がニューメキシコ州ロス・アラモス研究所に集められた。オッペンハイマーは同研究所の所長として陣頭指揮をとっていた。

オペラは史実を忠実に追ってゆく。第一幕は1945年6月、ロス・アラモス研究所に集められた科学者の議論から始まる。5月にナチス・ドイツが降伏し、まだ降伏していなかった日本に原爆を投下することの是非に科学者の関心が高まっている。エドワード・テラー(後の水爆の発明者)がオッペンハイマーに、「多くの科学者が対日戦に原爆を使うのに反対し、トルーマン大統領に陳情した」と伝える。科学者に良心があるならば、開発を即座に中止すべきであると進言する。

もう一人の科学者ロバート・ウイルソンも「もし日本に使われるのならば、その前に事前予告をして、日本に降伏する機会を与えなければならない。」とオッペンハイマーに食い下がる。しかし、オッペンハイマーはこの両者の忠告を退け、「それは大統領が決めるべきことで、科学者は政治判断にまで踏み込むべきではない。」と述べる。

第二幕は実験現場であるニューメキシコ州の砂漠が舞台になる。舞台中央には実物大の原子爆弾が天井から吊り下げられている。実験の二日前の7月15日には大型のハリケーンが接近している。気象士は、「このまま実験を強行すると、放射能が周りに飛び散り、科学者に多くの死傷者がでる可能性がある。」と予言する。研究者、軍関係者に不安が広がりパニック状態になる。しかし、オッペンハイマーは何としてでも実験を成功させて、ポツダムで待っているトルーマン大統領に吉報を伝えなければならない。

第三幕は、原爆爆発までの数時間を描写する。ロバート・ウイルソンが16日深夜、原爆を実験タワーに設置して、最終準備体制に入る。遠くではまだ雷鳴が轟いている。雷が落ちたら核分裂の連鎖反応が進んで制御不能になり、果ては地球の大気圏が破壊されるのではないかとの噂が広がる。オッペンハイマーはこれを否定するが、関係者の間に大きな動揺が広がる。

人々の動揺が収まらないうちに、起爆時刻を翌朝5時30分にする決定が下される。嵐はまだ続いている。5時10分からカウントダウンが始まる。関係者は全員、塹壕に身を潜めるように命令される。生命の危険に晒されながら、刻一刻と運命の時刻が近づいてくる。緊張は極致に達する。

ところが5時28分に突然風が凪ぎ、空が晴れ渡る。爆発の瞬間、オペラ会場には耳を劈く効果音が響きオーケストラが爆発の瞬間を奏でる。舞台全体はこの瞬間に、原爆雲の中で燃えさかる黄色と赤色に染まる。実験関係者が恐る恐る塹壕から顔を上げる。そこで見たのは恐ろしい破壊現場である。オッペンハイマーも古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節、「われは死なり、世界の破壊者なり」を引用して、その恐ろしさに感嘆する。

舞台袖のスピーカーから、日本人女性が訴えるうめき声が流れる。原爆被害者の亡霊であろうか。「水をください。水をください。この子達に水をください。」ここで、このオペラの幕が静かに下りる。

幕が下りてからもすぐに拍手は起きなかった。今まで娯楽物オペラに馴染んできた観客にとって、このオペラは異様な体験だったに違いない。しばらくして大きな大きな拍手が起きた。拍手は長く続き、作曲者、作詞者が舞台に現れたときには、ほとんどの観客が立ち上がって、この作品に惜しみない賞賛を送った。

今年10月1日から始まった公演が、このオペラの世界初演であった。シーズン中に10回公演されたが、連日満員であった。このオペラがなぜ、これほど多くの観客を動員できたのだろうか。

イラク戦争で米兵の死亡者は2000人を超え、ブッシュ政権は手詰まり状態に陥っている。今回のイラク戦争では、サンフランシスコのすぐ北にある、カリフォルニア大学バークレー校が開発したいくつかの技術が使われている。このオペラがテーマとしている科学者と人の命の関係は、サンフランシスコ近郊に住む多くの科学者・技術者にとって、60年前のドラマであると同時に、現代のドラマでもあるからではないだろうか。

筆者はオッペンハイマーが自分の信条に従って、核兵器に反対の立場を取ってきたと理解していた。しかし、このオペラの中での彼の行動は私の理解と違っていた。このオペラで描かれているオッペンハイマーは科学者としての良心を隠して、政治的無関心を装っている。

それから数日後、このオペラを勧めてくれたアメリカ人の友人と食事した。私の疑問を素直に彼にぶつけてみた。それはオッペンハイマーの生い立ちを理解しなければならないという。

オッペンハイマーはドイツ系ユダヤ人の移民の子として1904年にニューヨークで生まれた。彼は幼い頃から数学や化学に才能を発揮するほか、青年時代には語学の天才と称され、ダンテを原書で味わい、インドの経典を愛読した。ハーバード大学を卒業後、ドイツの大学で物理学の博士号を取得する。カリフォルニア大学バークレー校とカリフォルニア工科大学で物理学の教鞭をとり、1936年に32歳の若さで教授になる。その後、マンハッタン計画発足の翌年に、ロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され、原爆製造チームを主導することになる。

私の友人は、「オッペンハイマーは当時アメリカ人が最も警戒した要素を全て持っている人物であった。」と分析する。オッペンハイマーは、アメリカ人ではあるものの半分外人である。しかもユダヤ人である。自分が警戒されていることに彼自身気付かなかったはずがない。それを見越して、彼は敢えて“心を持たない科学者”に徹しようとしたのではなかったかと言う。

オッペンハイマーは太平洋戦争終了後にロスアラモス研究所の所長を辞任した。原爆実験を目のあたりにした彼は、原爆が古代インドの聖典で言う“生と死の両面を持った神”であることを実感し、心から後悔したという。“心を持たない科学者”から“心を持った科学者”に変身したのである。その後“自分の心”から水素爆弾の開発に反対し、全ての公職から追われることになる。彼は1967年に死去するが、戦後の経歴には戦前・戦中のような華々しい履歴がない。

では、このオペラは日本人にとってどのような意味を持つのだろうか。今から54年前にこのオペラを初演したこのオペラハウスで、サンフランシスコ講和条約が調印された。第二次世界大戦の連合国と日本との間で戦争状態を完全に終了させ、日本国領土の確定と日本国民の主権回復を正式に承認した条約は、ここで調印されたのである。このオペラハウスは、いまでも“戦争記念オペラハウス”と呼ばれている。

日本は今、過去の負の遺産を引きづりながらも平和国家になった。終戦から60年経た今、平和国家として世界から承認を受けたこのオペラハウスに、原爆被害者の悲痛な叫びが日本語で響いた。原爆開発の史実と被爆者の苦しみをアメリカ人の心の中に呼び起こしてくれたオペラ“原爆博士”の功績は大きいように思う。



カリフォルニア州メンロパーク市にて
安藤 茂彌
日経ネット・企業・コラム・海外VBトレンドに掲載(2005年10月31日)

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