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最新レポート
大統領の嘘

広島・長崎への原爆投下から60年を迎えた先月、NHKは多くの特別番組を放映した。筆者は米国の放送衛星を通じて流れてくる番組で原爆の映像を視聴した。改めて原爆の恐ろしさを実感した。アメリカのケーブルテレビ局CNNは、原爆記念日の8月6日に、広島・長崎への原爆投下は必要だったのかの世論調査を行なった。8割以上のアメリカ人は、「戦争を早期に終結させるために必要な措置であった。これがなければ更に50-100万人のアメリカ兵が死傷していたからだ。」と肯定的な回答をした。

確かにその9日後の8月15日に戦争は終わった。だが、相次ぐ絨毯爆撃で疲弊し、降伏交渉を始めていた日本に原爆投下が本当に必要だったのか。死者50-100万人という膨大な被害予想はどこから出てきたのか。日本で報道された終戦事情とアメリカで信じられている情報のギャップはどこから出てきたのか。

筆者はこの疑問を解くために幾つかの歴史研究書を読んだ。ガー・アルペロビッツやロナルド・タカキと言った歴史学者が90年代に、公開された公文書・私文書をベースに原爆投下の裏側事情を研究している。

昭和20年2月に英米仏ソの首脳が一同に会しドイツの敗戦を前提とした戦後処理を話し合うヤルタ会談が開催された。ドイツの分割統治、ポーランドの国境策定、バルト三国の処遇が決められた。この会談で米ソの密約が交わされた。ソ連がドイツ降伏の3ヵ月後に満州国を侵略する密約である。

ところがヤルタ会談の主要メンバーであったルーズベルト大統領が突然4月12日に病死した。これに伴って副大統領だったトルーマンが第33代大統領に就任した。トルーマンはミズーリ州の貧乏な家庭に育った叩き上げの田舎政治家だった。外交経験ゼロのトルーマンは、ジェームス・バーンズを頼りにし、その後7月3日に彼を国務長官に抜擢した。バーンズは下院・上院議員・連邦最高裁判事を歴任し、ルーズベルトの私設秘書としてヤルタ会談に出席する等、米国の外交を取り仕切ってきた黒幕的人物であった。

トルーマン大統領は4月25日にマンハッタン計画の進捗状況について報告を受けた。マンハッタン計画は、ルーズベルト大統領が核エネルギーの兵器への応用を研究するために昭和17年に発足させた原子爆弾製造計画国家である。トルーマンはバーンズをこの計画の定例会議に出席させることとし、以降彼から報告を受けることにした。

5月末日に開催された定例会議で、原子爆弾の最初の実験を7月16日にニューメキシコ州の砂漠で行なう決定がなされる。もしこれに成功すれば初の原子爆弾を8月1日までに完成することも可能との見通しが出される。この時点で広島・小倉・新潟・長崎が候補地として選定された。京都は一時候補地に上げられたが、歴史的建造物破壊の批判を恐れて新潟に変更された。一連の決定にバーンズが深く関わっていた。

日ソの動きを見てみると、日ソ不可侵条約は4月28日に更新期限を向かえ、ソ連は更新しない旨日本政府に伝えている。ナチ・ドイツは5月8日に無条件降伏した。ソ連の日本侵攻日は密約に従って8月8日と決められた。当時欧州にいたソ連軍の一部を満州との国境沿いに配置転換を進めることになった。

ヤルタ会談の時点で米英は、ドイツを敗戦に至らしめたソ連を同盟国とみなし、8月の日本参戦によって日本の降伏を実現できると期待していた。ところが英米はその後、ソ連の動きを警戒するようになる。英米はナチに占領されていた東欧諸国を、独立した民主国家として再構築させる計画でいた。一方、ソ連は親ソ政権を樹立して自国の支配下におく方針を取り始めた。

このことに最初に気づいたのは英国のチャーチル首相であった。早期にソ連指導部との話し合いを持たないと大変なことになると懸念し、5月中旬にトルーマンに首脳会談開催を迫った。しかし就任後の多忙を理由に7月17日まで参加できないと英国に伝えた。7月16日の原爆実験を念頭においての回答だった。

トルーマンとバーンズが考えていたのは、核実験の成功を交渉の武器にソ連に譲歩を迫る戦略であった。米国は、「もし原爆実験が成功すればソ連の対日参戦は不要になる。太平洋戦争で血を流したのは米国である。ソ連は対日参戦と日本降伏を手柄に、様々な要求を突きつけてくるに違いない。そのためには米国の手で日本を降伏させなければならない。原爆投下しかない。しかも8月8日以前に実行しなければならない。」と考えたのである。

その間、日本政府首脳はどうしていたのか。ソ連の不可侵条約失効後も、ソ連が米国に終戦仲介の労をとってくれることを期待していた。降伏の条件は唯一、国体護持(即ち天皇制を中心とした国家体制の維持)であった。7月中旬には、昭和天皇は近衛文麿を特使としてソ連に派遣し、条件付降伏に米国が応じるよう交渉していた。米国は日本国外務省と駐ソ連大使との交信内容をすべて傍受し、この動きを知っていたにも拘わらず無視した。

6-7月頃米国政府内部には、条件付降伏を認める意見が根強くあった。7月17日からベルリン郊外のポツダムで開催された首脳会議で、これを宣言の中に織り込むことを大統領に強く助言した。天皇が停戦命令をださなければ日本兵が戦闘を中止することは有り得ないと見ていたからだ。そのために天皇は必要であった。しかしトルーマンとバーンズはポツダム宣言からこの条件を削除した。日本が呑めない事を見越していた。ポツダム宣言は7月26日に発表された。

当時の首相鈴木貫太郎は国体護持を含んでいない宣言は呑めないとしてこれを黙殺した。7月28日のことであった。アメリカ政府は日本がポツダム宣言を拒否したから原爆を落とさざるを得なかったと説明しつづけている。では、トルーマンはいつ原爆投下の指示を出したのか。7月25日であった。彼はポツダムからの船旅の帰路、8月3日に指令を出したと回想しているが、部下はそうした事実は全くなかったと反駁している。

原爆投下の命令はホワイトハウスから直接出された。極東最高司令官として当時フィリピンから太平洋戦争の指揮をとっていたマッカーサーにはまったく相談をしていない。マッカーサーは、既に戦闘能力を失い降伏交渉を開始していた日本に、原爆投下の必要は全くないと考えていた。マッカーサーが原爆投下を知らされたのは投下の二日前であった。にも拘わらずトルーマンは、原爆投下は通常の軍事手続を経て実行されたと説明した。

米国国防省は米国陸軍が本土上陸をした場合の被害予想を幾つか試算していた。6月の沖縄戦で日本軍の執拗な反撃に遭遇した直後には、このまま本土上陸すれば米兵25万人日本兵25万人の犠牲者が出ると予測した。しかしその後の日本軍の戦闘能力低下を把握していた米軍は、仮に上陸した場合でもせいぜい3-4万人の犠牲で済むと見ていた。にも拘わらず、トルーマンは50-100万人と言いつづけた。

終戦を知ったアメリカ国民は喜びに沸いた。トルーマン大統領の支持率は85%にも達した。その後、原爆の残虐性が徐々に明らかになるにつれ、心有る米国市民からこの作戦への疑問が提起された。アメリカ人のやったことはナチにも優るとも劣らない残虐な行為ではなかったかと。そのたびにトルーマンは感情的な反論を行なった。その中には人種差別的な発言も多く見られたという。

大統領の死後、歴史研究家によって原爆投下に関わった人々の手記等が発掘され公開された。原爆投下はトルーマンとバーンズが周囲の意見を無視して秘密裡に進めた政策であることが明らかになってきた。ソ連を恐れるあまり原子爆弾に走り、日本の降伏意向を認識していたにも拘わらず、敢えて降伏させずに進めた強行策であった。原爆投下60周年を迎えたい現在でも、トルーマンとバーンズが保有していたとされる公文書はほとんど見つかっていない。歴史家は証拠隠滅を行なった可能性が高いと見ている。

歴史研究家は、広島・長崎への原爆投下は、第二次大戦終結から冷戦への過渡期に、はからずも権力と原子爆弾を手にした「小物」大統領が引き起きた悲劇であったと結論付けている。トルーマンはアメリカの歴代大統領の中でニクソンと並んで最も評価の低い大統領である。1953年に史上最低の支持率23%を記録して退任した。それでもアメリカ人は「大統領の嘘」を未だに信じている。

ブッシュ大統領がイラク侵攻をしたときに80%あった支持率も今は40%近くに落ち込んでいる。イラクが大量破壊兵器を持っていることが「嘘」であったことが明らかになり、勝利宣言から2年以上経っても終りの見えない戦争にアメリカ人は苛立っているからだ。アメリカ人は大統領の嘘にどこまで寛大であるのか。戦後60年経って、再びアメリカ国民は良識と道義心を問われている。



カリフォルニア州メンロパーク市にて
安藤 茂彌
日経ネット・企業・コラム・海外VBトレンドに掲載(2005年9月5日)

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