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最新レポート
命のキャピタリズム

筆者は最近外科手術を受けた。アメリカでの初体験手術であった。右肩の靭帯が破損して肩骨と乖離しており、これを接合する必要があった。肩に三方向から三箇所の穴をあけ、そこから器具を挿入して行なう内視鏡手術であった。メスで切開しないので回復が早いと言う。

手術当日午前10時半に入院した。手術時間は一時間半。麻酔から醒めたのは午後3時頃であった。3時半には退院していた。この程度の手術は外来でするのが一般的だそうである。

退院といっても事は簡単ではない。右肩の上には患部を冷やす冷却パッドが取り付けられ、首には鎮痛液ポンプが吊り下げられていた。ポンプから患部にゆっくりと鎮痛液が流し込まれる仕組みである。まるで重たい鎧を着けた武士のような出で立ちである。

帰宅してからが忙しかった。病院から貰った冷却ボックスに氷水を満たし、冷水を電動ポンプで冷却パッドに送り込む必要があった。だが、冷水を運ぶバルブの接続がどうもうまく行かない。何度やっても水が滴り落ちた。何とか接続できたときには、既に午後5時を回っていた。

疲れ果ててぐったりと寝込んだ。まだ麻酔が残っているようだった。目が醒めたのは午前1時。氷がすっかり溶けていた。氷を補充してまた寝た。途切れ途切れの睡眠の合間に、退院時に渡された写真とDVDを見た。手術部位を内視鏡で撮影した体内写真である。時刻と手術医の名前が記載されていた。

翌日午後また通院した。包帯を取り替えて貰うためである。肩には冷却装置、首からはポンプを吊り下げたままの姿である。包帯を取るとかなりの血痕が残っていた。上腕部は内出血ですっかり紫色に変色していた。

何故患者自身がこんなに動かなければならないのか。アメリカで手術を受けたことを後悔した。日本でなら五日間は入院させてくれただろう。病院の看護婦が冷却装置の取り付けも、鎮痛液ポンプの取り付けもやってくれたはずである。看護婦がする仕事を患者本人がする必要があるのだろうか。これがアメリカ医療の実体か。

費用の請求方法も複雑であった。病院に支払う入院代、医師に支払う手術代、麻酔医に支払う麻酔代、冷却ポンプ等の医療機器、手術前の検査代、それに薬代。それぞれがバラバラに請求されてくるし、保険会社の負担比率もバラバラである。しかも手術時点では保険会社がいくら負担してくれるのか確証はない。それぞれの費用につき同意書に署名させられた。「もし保険会社が支払わない場合には全額自己負担する」と言う同意書である。

それぞれの費用も馬鹿高い。日帰りの手術ですら入院料は140万円もする。そのうち保険会社が負担してくれるのは115万円と見込まれるので、25万円は手術当日に支払わなければならない。一体全体いくらかかるのか。そのうち自己負担はいくらなのか。手術が終わって2週間経った時点でも分からない。

この国の健康保険は民間企業が運営している。国の運営する保険は65歳以上の老人にしか適用されない。老人以外は民間の運営する保険に加入せざるを得ない。その保険料はここ数年間で大幅に値上がりした。以前は月額3万円程度だったのが今では10万円も支払っている。

高い保険料は多くの米国民にとって過重な負担となっている。最近の報告で4500万人が健康保険に加入していない実態が明らかになった。この数字は人口の15%にも達する。前年比200万人も増加している。保険料が高すぎて加入できないのである。

所得の低い層ほど加入率は低い。年収百万円未満の最貧困層で非加入者比率は5割近くに達する。この層には黒人、ヒスパニック(中南米からの移民)が多いから、政治的な不平等を生む。

所得の高い層の人でも安心しておられない。企業からレイオフされると、企業が掛けている団体健康保険から追い出される。個人資格で加入しなければならないので、保険料は高くなる。収入がなくなった上に、保険料が追い討ちをかける。いざとなったら全額自己負担を覚悟で加入しない人が増えているという。万一大きな病気に罹ったら大変なことになる。

保険に加入していない人の体験談を聞いた。彼は一昨年に小腸の一部が脱腸する病気に罹った。救急患者として病院に行った。直ちに手術をしないと命が危ないと言う。この病院と契約している若い医者に20万円で手術をしてもらうことになった。入院費も半額にしてもらった。病院に3日間入院して90万円掛った。勿論、すぐには支払えないので分割払いにしてもらった。彼は今でも支払いつづけている。

非加入者が病院に現れた場合、医者は病人を拒絶できない。人道上の観点から連邦法で禁じられている。病院は取りはぐれを覚悟で医療を施さざるを得ない。こうした医療費が年間に2兆円を超えるという。こんなことをやっている国はアメリカ以外にはないだろう。
その一方で、保険会社は年々保険料を引き上げて大きな利益を出している。それでも支払の段階になると何かと理由をつけて支払額を減らそうとする。加入者が保険会社に文句をいっても、訴訟までは起こさないだろうと足元を見て知らん顔をする。加入者の保険会社に対する不信感は根強い。

病院も儲けている。私が手術を受けた日帰りの外科手術センターは、一日に30-50件の手術をこなすという。年間120億円位の収入を上げている計算となる。手術をする医師と麻酔医は別途患者に請求するから、看護婦30人分の賃金、諸経費を支払った後でも100億円ぐらいの利益は出るだろう。最先端の手術機器を購入してもなお膨大な利益が残る。

薬代も価格高騰が著しい。あるアメリカの患者が団体でカナダに出向いてそこで常用薬を購入したら米国の半額で済んだと報告している。製薬メーカーは新薬の研究開発コストが増大していることを理由に、ここ数年間薬価の値上げを行なってきた。その結果、製薬業界は米国で最も収益力の高い産業になっている。

医療ビジネスは人の命に拘わるビジネスである。それぞれの業界は患者に経済的な“しわ寄せ”をしながら大きな利益を上げている。この国で貧乏人は病気に罹ったら死ぬか破産するしかない。先進国中の先進国といわれるこの国では、健康で快適な生活をできるのは“金”次第である。

日本では憲法第25条で、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と宣言している。しかし、アメリカ合衆国憲法にはこのような条項は存在しない。政府は国民の健康を守る何らの義務もないのである。外部には“自由主義”“デモクラシー”と偉そうなことを言いながら、国民には“基本的人権”すら与えられない国なのである。

クリントン政権時代にこの制度を改革しようとしたが、各方面からの反対で実現しなかった。ブッシュ政権には医療制度の改革に取り組む姿勢は全く見られない。余計なことをして業界の恨みを買いたくないからである。

資本主義剥き出しの欠陥医療制度ではあるものの、バイオ・医療機器の開発には絶好の環境を提供する。研究開発に携わる各業界が金持ちなので、技術革新はスピーディに進む。もっと金を儲けるために、新しい技術は開発され、それが迅速に現場に適用される。そのスピードの速さは日本が逆立ちしても追いつかない。

シリコンバレーは以前IT開発のメッカとして注目されたが、いまはバイオ、医療機器、ナノテクノロジーの分野で再び息を吹き返そうとしている。近隣にはスタンフォード大学、カリフォルニア大学サンフランシスコ校と言った医学の有名校が存在するし、ジェネンテック等の錚々たるバイオベンチャー企業もたくさんある。

だが、国の医療制度としてこの国を参考にするのは間違っていると思う。日本の健康保険会計は赤字続きであるが、そこには国民の健康を守る政府の強い意思と人間愛が貫かれている。人の命をもてあそぶアメリカ資本主義とは大きく違う。日本人として生まれたことをしみじみと誇りに思う。


カリフォルニア州メンロパーク市にて
安藤 茂彌
日経ネット・企業・コラム・海外VBトレンドに掲載(2005年6月6日)

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