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自分で決める自分が住む国
先月22日に小泉首相は二回目の訪朝を行った。地村さんと蓮池さんのお子さんは帰ってきた。だが、曽我さんの家族は帰れなかった。夫のジェンキンズさんが米国の脱走兵であるため、日本へ来た場合には日米犯罪人引渡し条約に基づいて米国で裁かれなければならない。夫も含めた家族の日本での生活は難しい形勢にある。
第三国で暮らすか、それとも曽我さんが北朝鮮に戻るのか。選択肢は少ない。自分の運命を狂わせた国に戻りたくないのは当然であろう。日本政府としても曽我さんの北朝鮮への帰還は何としても阻止したいところだろう。だが家族は北朝鮮にいる。万が一、家族関係を優先して北朝鮮に戻ることになれば、キムジョンイル政権にとっては格好の宣伝材料になる。
地村さん、蓮池さんのお子さんに対して近隣の学校、地域社会から暖かい協力の手が差し伸べられている。拉致の犠牲者の家族を早く日本人にさせなければならない。みんな純粋にそう考えている。だが、こうした協力は息長く行われなければならない。そしていずれかの時点で子供達も自立しなければならない。一般の日本人として取り扱われることになる。
彼らは北朝鮮で生まれて、朝鮮語を母国語として学び、多くの幼な馴染はピョンヤンにいる。彼らは外国人だけに居住が許される接待所に住み、特別扱いされてきた。北朝鮮の食糧危機とは全く無縁に育ってきた。社会主義国家の子供として、キムジョンイル総書記を最高の指導者と仰ぎ、社会主義国家実現のために燃えることに疑いを持たなかった人達である。国外がどうなのかも全く知らされてこなかった人達である。
彼らがいつかの時点で両親にこう質問したとしても不思議ではない。「日本人の子供と言うだけでなぜ日本に住まなければならないの?ピョンヤンにいたときの方が生活はずっと良かった。この国では日本語が不自然であると、いつまで経っても差別的な目で見られるの。小泉首相はキムジョンイル総書記より威厳がない。人民のための指導者には見えない。人民を愛する心がない。こんな国に私は住めない。パパ、ママご免。私はやっぱり北朝鮮に帰る。」
拉致された親の世代は、日本に住むことが最終目標であろう。だが、子供世代は違った事情にある。言葉も違えば体験も異なる。日本政府が子供世代の帰国を阻止したら"逆拉致"になる。地村さんのご両親は、子供達に「日本では誰でも努力をすれば報われる国である」と言ったそうだ。原則はそうであろう。だが、母国語も違い、幼児期をこの国で過ごさなかった人にとって、その努力が報われるハードルは高いような気がする。私の英語もいまだに日本人のアクセントから抜け出せない。
私は80年代に香港に駐在した。香港は97年にイギリスの植民地から中国の一部になることが決まっていた。香港人の多くは共産中国を嫌って逃げてきた人である。イギリス政府は香港が植民地であるにも拘わらず、香港人の英国への移民を拒否した。行き場を失った香港人はカナダ、オーストラリア、アメリカに移民申請を出した。多くの香港人が二重国籍になった。
だが、たとえ別の国のパスポートを取得したとしても、個人が何処に住むかは別問題である。多くの香港人は香港の主権が平和裏に英国から中国に移行されることが確認できるようになってから香港へ戻った。勿論、そのまま海外に移住したままの人も数多くいる。中国政府は香港から諸外国に移民した中国人に対して何らの束縛も加えていない。
私は今二つの国に住んでいる。日本と米国である。国籍は日本である。米国のビザは就業ビザである。一年間の7割は米国で過ごし、日本へは用事のあるときに帰ってくる。渡り鳥のような生活である。東京−サンフランシスコ間は平均9時間のフライトである。余り苦痛には思わない。それぞれに自宅がある。
私が渡米した96年当時、日本は明らかに悪い方向へ進んでいた。大手銀行の相次ぐ倒産が発生する一年前である。金融恐慌への予兆はあった。だが、日本政府は官僚の保身に妨げられて、有効な対策を打てなかった。それだけではない。ペイオフのように国民の不満を助長する政策が俎上に乗っていた。誰が自分の財産を守ってくれるのか。誰が日本人の将来に責任を持っているのか。
私は70年代に通算三年間アメリカに住んでいた。こんなときには日本を脱出しよう。十数年ぶりに再びアメリカに渡った。ようやく日本の閉塞感から開放された。シリコンバレーでは、みんなが生き生きと生活していた。インターネット時代を予感して、多くのベンチャーが新しい技術の開発に邁進していた。
もともとシリコンバレーにはベンチャーが育つ自然な風土があった。米国政府が育成している訳ではない。むしろ政府の介入を嫌う風土が定着している。日本政府は、その後、和製ベンチャーの育成に乗り出した。通産省(当時)のベンチャー育成の関係官僚を訪ねる機会があった。米国の状況を報告した。ある課長はこう言った。「安藤さん、あなたは日本を見捨てたのね?、、、、、羨ましい!」
そのアメリカは私が渡米して5年後に大きく変わった。2001年9月11日を境にテロに慄く国になった。テロ警戒信号なるものが作られ、黄色と赤の間を行ったり来たりしている。外国人に対する以前のおおらかさはなくなった。一年前に終結宣言をしたはずのイラク戦争は、泥沼化の中で多くのアメリカ兵が命を落としている。私の友人のアメリカ人はこう言った。「恐怖感を政治に利用するような国には住めない。日本に住みたい。」
攻め込まれたイラク人はアメリカ兵以上に命を落としている。敵は米兵だけではない。自国民を狙ったイラク人の起すテロで殺害されることもある。見えない敵への恐怖にイラク国民は日々直面している。フセイン政権にはいろいろと問題はあったが、少なくとも他国からの侵略に立ち向かう指導者はいた。指導者が突然消えたことの悲哀を、イラク国民はいま痛切に感じているのではなかろうか。かといって出国する自由もない。
国家は時に国民を利用することがある。国家は時に国民を見捨てることがある。国家は時に問題を解決できずに無気力になることもある。国家は時に国民に命を差し出せということもある。そして国家が突然消えることもある。
私が渡米して8年間が経った。いまだに自分の行った突飛な行動を反省していない。二つの国に住むことは誰もが願って実現できるものではない。何か運命のいたずらなようなところがある。また、誰にでもできる生活ではない。その人の生い立ちにも関係するし、人一倍の努力を要する生活でもある。いつの日にか、運命は別のいたずらを仕掛けるかもしれない。だが、国家と個人との関係について考えるには良い機会を与えてくれた。
良い国家とは、「国民に多くの自由度を認める国家である」と思う。だが、それは同時に、国民ひとりひとりに自己責任を問う国家でもある。何処の国の国民として生まれても、国民ひとりひとりの幸せを保証できる国家は何処にもない。「わが身はわが身で守る以外にない。最終的にその人を救えるのは、その人以外にはない。」日々刻々と伝わってくる世界ニュースは、我々にこの事を繰り返し繰り返し教えている。
カリフォルニア州メンロパーク市にて
安藤 茂彌
日経ネット・企業・コラム・海外VBトレンドに掲載(2004年6月14日)
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